この日は、お昼前から雪が降り出し、クラブ活動が始まるころにはすっかり雪景色に。
幸い東京からの電車は通常通り運航していたので、講師の柏木陽さんは無事に茅野入り。
一方で、茅野市内や周辺の地域の道路は雪が積もって今にも凍結しそう。夜の開催ということもあり、来られる予定だった部員さんの中には、参加を見送られる方も…。
今回が1回目の演劇ワークショップ。「プロの頭の中をのぞいてみよう!」ということで、柏木さんに、脚本・演出・そしてワークショップのことについて語っていただきました。
参加できなかった方もご安心を!
話した内容をブログに載せていいですよ~と柏木さんから許可をいただいたので、今回のブログでご紹介していきます。
柏木さんは「演劇家」。
「プロの頭の中ということで、僕には演劇―今回担当する台本や演出を考えたりする脳みそと、ワークショップを担当する別の脳みそもあります」とのこと。
■台本と演出ってなにするの?
―舞台進行を表す文章にはいくつか呼び方がある。台本・脚本・戯曲・シナリオなど。なんでたくさん名前があるかと言うと形が違うから。
・台本…舞台進行の土台になるものだから台本。書かれている形は様々。
例)父が帰ってくると兄がいる。兄と父は一言二言挨拶を交わす。
・脚本…役名が頭で、セリフが脚のように見えるから脚本
例)兄 おかえり
父 おう
・戯曲…脚本の形態で書かれていて、文学性があると戯曲と呼ばれる
・シナリオ…映像作品を作るときによく使われる。形は脚本だけど、そこにシーンナンバーとシーンタイトルが入っている。
「基本的には形が違うと、違う呼び名になる。今日説明するのは脚本や戯曲についてですが、このまま台本と呼びます。台本にはどんなことが書いてあるかと言うとセリフとト書きです。(もちろん例外はあります)」
◎セリフとト書き
・セリフ…その役柄の人が「〇〇〇〇」と言ってくださいと指示された言葉。
例)兄「おはよう」
・ト書き…舞台上で進行する、時や場所などセリフ以外で指定したいこと。
例)緑の芝生が広がる前庭を持つ家がある 時間は午後
「セリフはなんとなく分かりますよね。で、分かりにくいのがト書きです。ト書きは舞台上のことを色々と書きます。たとえば新劇と呼ばれるものの脚本の場合には、この時と場所をものすごく説明していたりします。」
例えば歌舞伎で”待てい、その方“と人を追うシーンがあったとして、このとき歌舞伎の台本には
兄 待てい、その方
ト、兄は父を追って走っていく
のように表記してあり、このセリフのあとに指示が書かれるときの「ト」があるからト書きと呼ばれているそうです。
「台本を書く仕事というのは、この“セリフとト書き”を書く仕事と言えます。」と柏木さんは言います。
「そんなことは分かっていますよね、ここら辺は一般論です。ここから先は僕がそう思って仕事しています、という話をします。」
◎では台本には何が書かれているのか
「…という話を高校生とかとすると、絶対これが出てきます。」
それは、『ストーリー・役柄・感情』などの言葉
「僕は、それは書かれていませんと話します。なぜでしょう。」
部員さん「なんででしょう…」
柏木さん曰く、これらの要素は観客の脳内で作られるから。
観客の脳の中でこれらが作られるために、セリフとト書きを書きます。
「難しいのは、“だれがそう見てもそういうストーリーじゃん”っていう人がいるんです。ここの解釈をめぐる戦いは、なかなか大変なんですよ。」
そこで、と柏木さんが取り出したのは茅野市民館で2月、3月に行われる二つの舞台作品のチラシ。一つは諏訪地区の演劇部の高校生たちが合同で作り上げる舞台「傀―KAI―」、もう一つは、コンテンポラリーダンスの公演「A Tail Holder」。
「僕はこの二つを見ることをお勧めしたい。」
「これは『傀―KAI―』の方がストーリーや役柄や感情の、解釈の幅が狭いんです。でも解釈の余地はあります。自由に見てもいいですよといいながらすごく限定をかけます。」
一方で…
「『A Tail
Holder』は、その解釈の幅がものすごく広いです。」
ダンスと演劇だから解釈の幅に差が生まれるのは当たり前に思うかもしれませんが…
「例えば、クラシックバレエの『ロミオとジュリエット』や『ドン・キホーテ』はこっち(傀―KAI―)です。ダンスでも解釈の幅は狭いものがあるし、演劇でもコンテンポラリーな表現は幅が広い。音楽でも、オーケストラの人とかに聞くと“や、その作品の解釈は大体かたまっているからさぁ”とか言うんですよ。そういうことが音楽にも美術にも、もちろん舞台表現にもある。」
「だから観客の脳内で作られるんですよ、ストーリーとかは」と柏木さん。
ある人から見たら悲劇的な内容でも、ほかの人が見たら大笑いできるかもしれないし、自分を励ましてくれるような作品かもしれない。
「なんでそんなに違うのかって、ストーリーとか役の感情っていうのが見ている人たち個々の脳内で生成されるからとしか僕は解釈できないんですよ。だから舞台を見てどんなものだったかって話し合うのって面白いと思うんです。お互いを知ることになると思うんですよね。」
◎セリフとト書きから表現を決めることができるのは出演者
「例えば“悲しいな”ってセリフがあるとするじゃないですか。」
セリフとト書きしかないから台本にはなにもできない。その表現を決めることができるのは舞台上で出演者だけ。
「“悲しいなぁ…”(しょぼん)っていう感じで言うと、〈俺たちは手出しできないけど、でも悲しいよなぁ〉・・・みたいに気持ちを分かち合う感じになるじゃないですか。」
でもこれが、
「“悲しいなぁ!”(見下ろすようにして)ってなると、打ちひしがれている人がいて、その人を上から見下したようなセリフになるじゃないですか。」
セリフの表現ひとつで舞台は変化していきます。
「今まで悪役で“そらみろ~!”とか言っていたような役が、あるシーンで(ぽつりと)“悲しいな…”って言ったら、お、お前…!そんなこと思ってたのか!ってなるじゃないですか。それが同じテンションで“悲しいなぁ!”って言ったらそのままの流れですよね。どうするのってところを出演者が握っている。なので僕は、出演者だけを集めて台本なしで舞台を作るのも可能だなと思っています。」
◎脚本家と演出家
・欧米の場合、脚本を書く人と演出を考える人が別々のことが多い。
→日本では一緒の場合が多い
それぞれのいいところは…
■脚本家と演出家がそれぞれいる場合
演出家が脚本を読んだときに、何が分かって何が分からないかを仕分けでき、観客の手助けになる演出を作っていくことができること。
■脚本家と演出家が一緒の場合
自由に書いたものを自由に演じていくことができ、表現として掟破りなことがどんどん出てくること。
\ただし、古典は別/
チェーホフやシェイクスピアなど、古典はそれまでの解釈の積み上げがあるので、そのようなものとしてみてください、という暗黙の了解のもとに、とんでもない解釈のものができる。
「クウェートかどこかの劇団の方が、『アル・ハムレット・サミット』という作品を作りました。ハムレットなんですけど、イスラムなんですよ。ハムレットがサミットの場にいる。サミットの登場人物は王様だったりオフィーリアだったりして。あとフォーティンブラスという物語の核になる人物がいるんですけど、フォーティンブラスの席だけ空いているんです。それで最後にフォーティンブラスが登場したときには全員死んでる、っていう…。ハムレットがサミットの場所でどんどん人を殺していく。ありえないんだけど、ありえるのはハムレットってそういう話だったじゃん、ってなるからそんな舞台も可能だったわけですね。」
◎柏木さんが台本を書くとき
「僕が台本を考えるときはストーリーや役はあまり考えず、すぐにセリフを書き出します。ストーリーや役や感情は観客が頭の中で考えればいいんだから、僕がやるべきなのは、セリフのやり取りの中でここがどこか、今がいつか、この人はだれか、何が話されているか、お互いがどんな関係かということがわかるように書けばいいんです。
たとえば…
“ねぇ先生まだ?” “まだみたい”っていうとここがどうやら学校だと分かるんですよ。
この人たちはおそらく学生で、先生を待っているみたいってことも分かる。
“ねぇ帰らない?” “いやまずいよ” “だってさぁ待たせてるのあっちじゃん”
“そうだけどさぁ、だって呼び出されてるんでしょ” “そうだけどさぁ”
っていうと、呼び出されてて、すごいやる気のないやつで、さらに先生のこと馬鹿にしてるやつがここにいるということがわかる。そうするとストーリーと役柄がだんだん見えてくる。僕は書いた後に思うわけです。〈そっかぁ~、呼び出されてるのか、どうしよう〉って。
それで3人目を出すわけです。
“あんたたち何やってんの” “いや別に” “あぁ、この前のやつね” “いいから行きなよもう” “だめだよちゃんとしないと”と、1人去る。去った1人に“あいつむかつく”とか言う。
そうするとこの子達の置かれている立場がだんだん分かってくるじゃないですか。こんな感じでさっきの、ここがどこか、その人が誰か・・・などがだんだん見えてくるように書くのが僕の台本の書き方です。今回は絵が主役なのでそういう書き方はできないかもしれませんが。」
ほかにも…例えば『3匹のこぶた』の演劇を作るとなったら
「『3匹のこぶた』なので自由度はないじゃないですか。そんな場合は、どう始めようか考えて、僕はなんとなく楽しく始めたいなと思うわけです。
“ぶたぶたこぶた僕たちこぶた。ぼくたち3匹兄弟だ”とか書くわけです。
“兄だぶー” “真ん中だぶー” “弟だぶー”とか書くんです。
“もう3人とも大人だし、住むところをそれぞれ作ろうじゃないか” “おー”みたいなことを書くと、始まったなって。」
◎どう始まるかは全体を支配する
「高校生の時に演劇部で、顧問の先生に“2時間の作品を大体分からせるのに冒頭10分使うんだ。60分の作品だと3分しかない。”と言われて、僕も未だにそう思っています。舞台が始まって〈あ~、こうか~〉って思ったことって終わりまで案外変わらない。どう始まるかは全体を支配する。終わりでそれが覆ることはあまりないです。」
■柏木さんとワークショップ
以前から柏木さんのワークショップなどに参加していた部員さん、「板書をする柏木さんを初めて見た…」とちょっとびっくり。
「普段ここまで話さないのは、僕がワークショップをやっているからです。」
◎従来の教育とワークショップの違い
教育システムとしてのワークショップを考えたときに、従来の教育とはこのような違いがある
・従来の教育
ある人がたくさんの知識を持っていて、それを受講者に教える。
・ワークショップ
集まった人たちが、自分たちの持っているものであるタスクを行い、自分たちで学びを得る。
「先生と呼ばれる人がどこにいるのがベストかというと、従来型の教育システムの場合は生徒の前にいることなんですけど、ワークショップ型は生徒の後ろ側。後見としているのがベストなんですよ。作りながら学ぶときに、前にいてはだめなんです。今日は講座なので前にいるんですけど、普段はほぼ前にいないんです。僕のような人間がいなくても何かを作り出す力を皆さんはすでに持っているということを示していきたいから。ひとりひとりは欠けているかもしれないけど、持ち寄った力でこれだけのものができるじゃないですか、演劇だってダンスだって皆さんの力で作れるんですよってなることが、このワークショップの目的なので、僕は後見にいる必要がある。」
■柏木さんのアイデアってどうやって出てくるの?
・直感に触れる(理屈じゃない)
・連鎖とダブルミーニング
「直感って、変な言い方ですけど、ダジャレを思いつくときに似ている。ダジャレって理屈じゃないでしょ?長峰さんが〈見立てと変容〉って言ったと思うんですけど、それで言うと〈連鎖とダブルミーニング〉。連鎖を考えていきながら、直感に触れて、直感からどう構築するか。」
さらに、直感に触れることについてこうお話されました。
「直感って大体間違っています。だから科学で検証して、大体が”間違っていたね”という結論になるんだけど、直感に触れるようにしていくと、僕たちは時々当たりにぶつかるんですよ。昔はそういうことを見つけられる人はビジョンを持った人と言いました。ビジョンという言葉は見ているものという意味だけではなくて、展望や見通しという意味もあります。そのようなビジョンを持った人を昔は魔術師と呼びました。今はアーティストと呼びます。特徴は両方ペテン師だということです。」
一同「あはは」
「だってそうでしょう?口先三寸で大金を出させて、人をいっぱい働かせるんですよ。じゃあ何を作るのかというと、魔術師の場合は金や不老長寿の薬です。当然失敗します。魔術師が連綿と積み重ねた失敗の先に何があったかというと、現代の科学です。そのころにやっていたことが様々な物質の発見になりました。魔術師たちの試行錯誤が現代科学の基礎を作ってきたわけです。じゃあ、アーティストがやっていることは何だろうね。多分これは200年、300年先に分かります。だけど、それが無ければだめだと思うことを多分作っているんです。そういう意味で言うと、ポテトチップスを作っている人も下駄を作っている人も、毎朝目玉焼きを作っている人もお洗濯してくれている人も、みんな等しいです。そんなに違いがあるわけではない。では僕たちがそのアーティストに何を求めるかと言えば、ビジョンですよ。未来像であり、展望であり、見通し。辻野顧問はアーティストですよ。未来像を見せてくれるわけです。僕はどっちかって言うと出入り業者だから。整理しますよ~ってやっているだけなんで(笑)。」
■最後に…
「演出についてもしゃべろうと思ったけど、もう時間なのでここまでにします。」
今回の講座では、部員の皆さんが前回までの舞台美術ワークショップでどんな絵本を作ったのか、柏木さんにお見せする時間もありました。
「皆さんいい作品が多いね。今後の作業が楽しみになりました。」
今回参加できなかった方の絵本もぜひ見ていただきたいですね!
次回は演劇・舞台美術の合同ワークショップ、3月に入るといよいよ本格的に部活動らしくなっていきます。
回数も多くなっていきますので、ご自分のペースで楽しくご参加ください。
(マネージャー・まりこ)
* * * * * * * *
2023年1月27日(金)演劇ワークショップ①
講師インタビュー
「柏木さんに聞く!」
―今日は「演劇」に関する柏木さんの「あたまの中」の話をたくさん聞けました。最後の「直感」の話も、まるで芝居のエンディングみたいな……
(柏木)あたまの中が見てみたいって、「なんでこういう発想が出てくるのか」ってことだと思うんですけど、そのとっかかりをつかむのに「直感」の話がいいかな、と。
前回の長峰さんのワークは、みんなで直感をつかまえてみようってことだったと思うんですよ。直感に手をのばすと描けるし、絵本になるし、その直感を信じたままそれを言葉にしていくとそれが物語になる。
一頁つくり、また一頁つくって見開きの一面ができる。そうすると、その次の見開きの一面との間に飛躍があるんですよね。長峰さんは、その飛躍をどうつなぐかってことのなかに演劇があるよっていう言い方をしたと思うんです。で、ぼくの中ではそれが「観客の脳みそのなかにストーリーはできあがる」なんです。
(絵本をつくっているみなさんは)意図してないんだけど、つくったものを「見た」自分っていうところから出発してて、それって「観客」なんですよね。観客は演し物を見たとき、この飛躍を「わたしならこうつなげる」ってやっている。だから演劇になる。長峰さんが飛躍のなかに演劇があるよって言い方をしたのは、ぼくはそういうことなんだと勝手に思っていて。長峰さんには「え〜〜〜、そんなこと言ってないー」って言われそうだけど(笑)。
―今日の講座はふだん聞けない話が盛りだくさんで、滅多にないことが実現したな、と。雪の影響で来られない人もいたので、ブログで公開したいのですが……
(柏木)どうぞどうぞ。演劇のワークショップの場合、現場の振り返りはやるんですけど、どんなことをやり、どんなことを語ったっていう詳細まではあんまりないんです。自分の振り返りとしてもありがたいです。
ワークショップって、「よくわかんないけど続けてみる」って時期があって、いろいろやってみてっていう時期がある。で、詳細な記録とか記事がでてくると、だんだん集合知として「こういうのがいいものっていうんじゃない?」って、生まれる素地になるんじゃないかと思うんです。ゆっくりゆっくり積み重なっていって、その先に「うちだったらこういうワークショップが望ましい」とか「ああいうところで展開したいね」っていう、検証になっていく気がするんですよ。そういう意味でも、公開することでシーン全体にとっての財産が生まれていくんじゃないかと思うんです。
最近、公共の役割ってことを考える機会があったんですが、それって施策のさまざまな出来事を公開し、検証できるようにしておくことじゃないかって思うんですよ。何が語られ、何が実現され、何に希望をもって、どういうことを未来図として描いたから、これがあったんですっていうこと。それが、ずれちゃったかもしれないけどここまでたどり着いた、っていうこともある。そういう検証ができる状況を作ることが公共の役割なのかなって。
公共の役割って、利益率の高さじゃなくて、未来にどれだけ投資できるかですよね。「今」を回収するのではなく、「未来」にどうつなげていくか。そのビジョンの先にあるものを地域で共有する、それが公共劇場のミッションだなと思って。ぼくが関わってきた公共劇場のみなさんは、それを実現しようと奮闘しているなあって感じてます。
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